畑から   bS

’02.5.14
 

 梅雨の走りがもう始まったようです。今年は雨が長くなりそうです。こういう時にこそ百姓技術の腕の見せ所。天気いい年には、誰にでも出来るのです。さあ、頑張りましょう。

 でもこう雨が続いてはどうすることも出来ませんから、しばしまた、脱線。

 私は以前、勤め人をしていました。野菜の新しい品種を作る仕事をしていました。当時少し下火になっていましたが、遺伝子を組み換えたりその組み換えた植物を大量に増やしたりする技術を考えていました。私は出来が悪かったので、いつも結果は散々でした。まあ、それはどうでもよいことですが、この時代の生活で、一つたいへん困ったことがありました。

それは栽培を知らない上司に農家から得る技術を説明すること。私は自分で増殖させた植物を実際に畑に植えて自分で管理をしていました。しかし百姓を知らないので、栽培については試験場や農家をまわりいろいろと教わりました。そこでの出来事をいくつか紹介しましょう。

あるとき、田植用の苗を作っていた農家で、使用していた薬剤について質問したところ、“この薬は苗に活力を与えるもの”との答え。そのまま上司に報告したところ納得してもらえず、具体的に説明しろとのこと。“第一、活力とは何だ。”気合に抜けた社員になら罵声を浴びせることでも効くだろうが、腹が減っている奴になら飯を食わせることだ。さらに、飯は食っているが偏食があるなら不足している栄養素のみを処方すればよいのであるとの弁。もっともな話である。またあるとき、私がリン肥料としてようリン(溶成リン肥)を撒いていると、ある農家が“土壌改良剤か?”と一言。私は肥料目的で使用したつもりである。では、改良とはいったい何を改良するのか。私の日本語が正しければ、改良とは何か悪いとこるがあり、それをよい方向に仕向ける方策が改良なのだと思っているので、まず悪いところがなければいけない。問題点がどこにありそれをどのような方法で改良するのかと問うと、答えが帰ってこない。肝心なことは、どうでもいいようである。一事が万事この調子。つねに経験でのみ作業が進む。

 ここ笠間クラインガルテンの利用者の多くは、会社組織での生活が長い方たちですから、私流の説明をご理解いただけることと思っております。むしろ、何の説明もなく、タネを蒔け土をかけろと指示されようものなら不安でたまらない。第一自分の意志や思考で行動している実感がなくなります。かといって、まったく手放しでは、事が進みません。百姓は一年が一回ですから、今日の仕事は来年までありません。もしどれもこれもうまくいかなければ、“つまらない”が先に立ち、興味関心は激減します。そこで、上げたり下げたりしながら、興味を引くのが私の仕事。

ここ笠間クラインガルテンでは、農機具や肥料が無料で自由に使えます。そのせいか、むやみやたらに肥やしを撒きたがり鍬や農機具を振り回す人たちがいます。ものには加減があってたくさん撒けば、たくさん取れる訳ではありません。むしろ与えすぎは、さまざまな弊害をもたらします。詳細は別な機会に譲るとして、多すぎた肥料は取り除けません。足りないなら足せばいいのです。これが追い肥え(“ついひ”)で、いつ、何を、どのように処置するかは、各作物の栽培技術により異なり、それを覚えることが農業です。

前述、“活力”に続けて、意味が曖昧のまま使われるのに心に響く言葉。“地力”と“連作障害”。畑仕事一年生と話をすると、話の前に必ず出てくる言葉が、“連作障害”。少し物の本を開けると必ず書いてあるので仕方がないのかもしれません。敢えて述べると、ただ一つジャガイモの跡地にトマトを栽培しなければ、この言葉を実感することはないと思います。化成肥料も農薬も使用しないのであれば、まず、目に見えて変化が出るとは思えません。“となり”より少し成績が悪いと“連作障害”が出たとか、挙句にはこの畑は“地力”がないとか。んっ?考えさせられることが多いのです。