畑から(畑の露地裏)   bP9

 

畑の露地裏  年の瀬に想う

 あっという間に一年が過ぎます。一面の緑に覆われていた畑も、ぽつぽつと地面が顔を出します。年の瀬ですね。さびしくなるばかりの畑を見て、やっと今年一年を振り返る時間ができるのです。
 今回は、私の数少ない読書履歴の中で、私の農業観を端的に語ってくれた一節をご紹介します。それぞれ考えることがあると思います。
 より物事の根元に近い部分をどれだけ理解していただくかが、理解させる側の力量です。その点について、クラインガルテンでの私の働きを問われると、恥ずかしくなるので大声で語るのはやめておきます。ただ昨日、利用者間でやり取りされるメーリングリストの中に、自分で作った野菜を自分流に加工された体験例が投稿されていたのを見て、より根元に近づこうとする方々がいらっしゃることに改めて気づかされました。
 これに限らず、ガルテナーの畑を見ると、工夫や検証など、さまざまな試みが見受けられます。栽培クラブの主宰として、これらの興味に答えられるよう今後とも努力したいと思います。
 それでは、先に述べた部分を以下に引用させていただきます。

 「文化」というと、すぐ芸術、美術、文学や学術といったものをアタマに思いうかべる人が多い。農作物や農業などは、“文化圏”の外の存在として認識される。
 しかし文化という外国語のもとは、英語で「カルチャー」、ドイツ語で「クルツール」の訳語である。この語のもとの意味は、いうまでもなく「耕す」ことである。地を耕して作物を育てること、これが文化の原義である。
 これが日本語になると、もっぱら“心を耕す”方面ばかり考えられて、はじめの意味がきれいに忘れられて、枝先の花である芸術や学問の意味の方が重視されてしまった。しかし、根を忘れて花だけを見ている文化観は、根なし草にひとしい。(中略)
 人類はかつて猿であった時代から、毎日食べつづけてきて、原子力を利用するようになった現代にまでやって来た。その間に経過した時間は数千年ではなく、万年単位の長さである。また、その膨大な年月の間、人間の活動、労働の主力は、つねに、毎日の食べるものの獲得におかれてきたことは疑う余地のない事実である。近代文明が高度の文化の花を開かせた国においても、食物生産に全労働量の過半を必要とした時代は、ついこのあいだまでの状態であった、とはいえないか?
 人類は、戦争のためよりも、宗教儀礼のためよりも、芸術や学術のためよりも、食べる物を生みだす農業のために、いちばん多くの汗を流してきた。現代とても、やはり農業のために流す汗が、全世界的に見れば、もっとも多いであろう。過去数千年間、そして現在もいぜんとして、農業こそは人間の努力の中心的存在である。(中略)
 農業を、文化としてとらえてみると、そこには驚くばかりの現象が満ちみちている。ちょうど宗教が生きている文化現象であるように、農業はもちろん生きている文化であって、死体ではない。いや、農業は生きているどころではなく、人間がそれによって生存している文化である。消費する文化ではなく、農業は生産する文化である。
 農耕文化は文化財に満ちみちている。農具や農作技術は、原始的どころか、全世界のほとんどの農耕民のものがそのまま驚くばかり進歩したものになっている。その一つずつに起源があり、また伝播があり、発達や変遷があるが、そのすべてをときあかすことは、人類の全歴史をあらためて述べることになるほどである。 (『栽培植物と農耕の起源』中尾佐助著 岩波新書 より)

 全歴史を解き明かすことは無理としても、とかく枝先ばかりに目が向けられるのは事実であり、特に日本人は形から入ることが多い。ゴルフ道具など心当たりがある御仁も多いことでしょう。
 クラインガルテンの農作業では、枝先の花ではなく、より根元側を見て理解を深めていただけるよう、内容の充実をはかりたいと考えています。


[斎藤典保]