斎藤典保の歩み

■斎藤 典保 略歴
 
■斎藤典保の投稿・新聞掲載記事
●新百姓かけ足の7年 
 私はいわゆる新規就農者。土地も技術もおまけに金もないのに何ができるのか?現実を思うと越えなければならないハードルがいくっもいくつも現れて、何となく明日のことを考えることを避けて、違い目の夢ばかり膨らませる日々が2年ほど続いた。地図と県内市町村の人口のデータをことあるごとにながめ、希望だけが頼りだったような気がする。でもきっと人間ができていないかそれとも馬鹿なのか,地図を見ながらニヤニヤしてばかりいたように思う。楽観主義というにはお粗末すぎると反省している。
 縁あって今の地を知り,偵察に釆たのが8年前。陶芸家が住む印象の良い街だと思い,我家の大蔵大臣に良いことづくめの報告をしたのは言うまでもない。まね事のような畑仕事が始まったのはそれからまもなくだった。傍から見たらさぞかしこっけいな仕事ぶりだったろう(もちろん今でもそうなのだが)。それが近くの牧場主(今では恩人)には道楽に見えたようである。悔しいけれど事実は事実だからしかたがない。しかし,そのこっけいさが幸いしたのかもしれない。その後、恩人が入植に関して助っ人になってくれたのである。

 その恩人からさらに強力な助っ人を今の地に紹介いただいた。”協力な”がくっつくぐらいだから、話がとんとん拍子で進み、5年目にしてやっと今の地主さんに巡り会えた。4年間のスランプを思うと,巡り会えたとしか言いようがないのであります。この4年間は、先の見えない不安感に加え、いろいろなことがありました。なかでも腰痛のこと。
 起きぬけに軽トラックに乗り込もうとすると、ここ2・3日ドアの枠にどうも頑がっかえてしまう。腰が痛くて曲がらないのである。「寝起きだからしかたがないか。」と思い、それ以上考えもせず畑へ向かう。季節は初夏,朝霧のかかる早朝だった。今日も暑いにちがいない。準備からとりかかる。朝飯前の仕事を終え,再び軽トラックに乗り込むと、やっぱり腰が重い。暑さに加えて重労働が続くから疲れが出ているのだろう。

 「ん!いてぇ。」やっぱり疲れている。でももう少し動き出せばエンジンもかかるだろう。そう思うと不思議と忘れてしまう。初夏の午前中はむっとする暑さで、あまり好きではない。気持ちの方は蒸し暑いことへ向いていて,腰痛のことは忘れている。もう少しだけやろう。そしたら昼休みだ0明日は少し静養して、のんびりすれば治るだろう。こんな痛みはいままで経験していなかったので、気軽に考えていた。夕方、大根を抜きに畑に降り立った。降りるときも、「あぁ!」と、ためいきが出てしまう。抜いた大根を入れる箱がやけに重く感じたのが最後、やっぱりこれは変だ。夏大根が抜けない私の作る夏大根は,そんなに大きなものではない。むしろ貧弱な大根なのに。それが抜けないでもがいている0まわりの人が見たら変な恰好をしているように見えるだろう。そう思うと力が抜けるような笑いが出た。実際のところ、へなへなと畑にへたり込んでしまった。困ったことに立てないようだ。「まずい,帰れないのか?落ち着こう。落ち着こう。」きっと焦りのせいだろう,脂汗をかいているのが自分でもわかった。5年前の夏・笠間へ来て2年目のことだった。一時はどうなるかと思ったが,今は何とか痛みと仲良く付き合っている。ちょっとオーバーだが仕事よりその先の人生を心配したほどでした。

 変わり者なのだろう。勤め人の家に育ったが,田舎暮らしに憧れていた。百姓がしたい。そう思ったのには特に理由はない。強いて言えば,少しばかり環境問題や食糧問題に興味があったこと。あっという間の7年。幸,周囲から良くされ、私も新参者として、極力地元地域に溶け込むことを第一に暮らして来た。これから向こう3年は,八百屋半軒ぐらいの生産量を周年確保(?)し,仲間作りにも力を注ぎたい。

●毎日新聞記事より(2000.2.7)
●環境に優しい家づくりを 
 「捨てられているもみがらを有効に活用し、環境に優しい家づくりを」と、薫炭にしたもみがらを断熱材に利用した木造2階建ての建物が笠闇市福原に建設されている。
 同市福原、農業、斉藤典保さん(39)が自宅わきに建てているもので、木造2階建て延べ床面積88平方bの作業場を兼ねた宿泊施設。
 同市相田の建設業、谷中久克さん(40)が、もみがらを断熱材に利用して古民家を再生している富山県八尾町の大工さんをテレビで知り、昨年3月、現地見学したのがきっかけ。

 1・4ヘクタールの農地を借りて有機農業に取り組んでいる知人の斉藤さんに相談したところ、斉藤さんも大半が水田で野焼きされているもみがらの有効利用につながれば、と賛同した。
 「より効果が期待できる薫炭化にして使おう」と、昨年12月からドラム缶にもみがらを入れていぶし、約30日かけて約6000bを煉炭化した。
 天井や外壁、床面などに、もみがらを話める。ほかの建築材料もなるべく化学製品を避け、環境や健康に配慮しているという。2月中旬には完成予定で、宿泊希望者の体験ツアーと家づくりについての話し合いも計画している。斉藤さんは「農業という異業種の間で、もみがらが再利用出来ることが分かりました」と話す。
谷中さんも「地域起こしや活性化にもつなげていければ」と意欲を燃やしている。

●朝日新聞記事より(2000.3.5)
●欠かせぬ地域つき合い
 「米つきバッタになれますか」笠間市福原で野菜を作る斉藤典保さん(39)は、新規就農を希望する人たちを前に、いつもこんな問いかけをする。田舎でのんびり暮らしたい、人間関係にわずらわされたくないーそんな動機で農業を志す人たちの「幻想」を、あえてぶち壊すためだ。

 埼玉県の出身。大学では植物の遺伝学を専攻した。その後、農機具メーカーに勤務し、メーカーが事業の多角化で始めた作物の品種改良に取り組んだ。学生のころから農業志望。したためていた夢の実現のため、一九九一年に退職して、一足先に新規就農した知り合いの住む笠間にやって来た。就農に備え、栃木県内の農家で研修も積んでいた。だが、斉藤さんが本格的に農業を始められたのは、ずっと後だった。
 農地をあっせんしてくれる不動産業者はない。ひたすら農地探しに明け暮れた。中古で買った軽トラックで畑や田んぼを回り、顔を売った。よそ者でいる限り、農地を紹介してくれる人はなく、人脈を築いて探すしかなかった。実際に使ったことはないが、祝儀袋や香典袋も絶えず用意していた。土地にとけ込むには冠婚葬祭の付き合いが欠かせないと考えたからだ。
 「面倒みてやる」と言ってくれる人が現れ、一・四ヘクタールの畑を借りられたときには、笠間に来て三年半が過ぎていた。農業委員会への手続きなども、知り合った人たちの口利きがなければできなかったという。

 「やり方も、どこまでやるかもそれぞれの勝手。でも新参者は自分でその土地に入っていかないと、必要な情報が入らない。それができずに夢をあきらめ、『田舎は排他的だ、冷たい』なんて言いたくなかった」と斉藤さん。
 「米つきバッタ」はこれで終わらない。
 作る無農薬の野菜には自信がある。でも「斉藤の野菜」を知ってもらい、買ってくれる人を見つけないと収入にはならない。ビラをまいて、宅配の客を開拓する。まだまだ赤字が続き、教員の奥さんが家計を支える。

 斉藤さんはいま、キュウリやナス、ピーマンの苗づくりに忙しい。何とか赤字から抜けたいと今年にかける。
 
●茨城新聞記事より(2002.1.1)
●有機栽培自ら宅配「信頼を築ける範囲で
 「農業をやりたくても、スタートラインに立つまでが大変。農地を見つけるだけで三年かかった」と話すのは、笠間市福原で有機農業に取り組む斉藤典保さん(四一)。農機具メーカーを脱サラし、実際に農業を仕事として軌道に乗せるまで、五年ほどの歳月を費やした。
 その大半を占めたのが農地の確保だ。埼玉県さいたま市出身の斉藤さんが、特別なつてのない土地で農地を見つけるのは至難の業で、妻と子供二人の家族四人が現在の土地に落ち着くまで、農地を提供してくれる人を探すため一軒一軒、頭を下げて回る毎日だった。

 妻も仕事を持つ共働きのため、作業はすべて一人でこなす。畑は自宅の周り一・六ヘクタールで、畑でなかった土地を開墾するのに八カ月かかった。
 六年前から、完全無農薬栽培の野菜八〜十種類を消費者に直接届け始め、現在は市内二十軒に週二回、旬に合わせて宅配する。収入を考えれば、契約先二十軒は多いとはいえないが、「二時間ですべて届けられ、しっかりと信頼関係を築ける範囲」と、自分なりに線引きして決めた。

 田舎者らしにあこがれ、斉藤さん宅を訪れる就農希望者が最近増えているが、実際に農業を始める人はごくわずかという。「野菜を作れるかどうか以前に、都会や人込みから逃げたいという考えではとても無理。地域に溶け込む覚悟が大事」と実感を込めて語る。
 就農を志してから現在まで十二年。当初”よそ者″だった斉藤さんも、市内の笠間クラインガルテンで営農アドバイザーを務め、毎週日曜日、農業を知らない人たちに無農薬栽培を指導。一人の農家として地域に溶け込んだ。斉藤さんは「厳しい環境の中で生き残れており、周りの人たちに何とか認められた」ことを理由に、「自分の思い描いた通りの農業が実現できた」と言い切る。


TOPへ